使徒1章
1:1 テオフィロ様。私は前の書で、イエスが行い始め、また教え始められたすべてのことについて書き記しました。
前の手紙としてのルカの福音書では、イエス様が行い始め、教え始められたすべてのことが記されています。その働きは、完結していないことを表しています。それは、新約聖書が完成するとき完結します。聖書は、私たちが知るべきことの全てが記されています。
1:2 それは、お選びになった使徒たちに聖霊によって命じた後、天に上げられた日までのことでした。
前の手紙の内容は、天に引き上げられるまでのことです。
1:3 イエスは苦しみを受けた後、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。四十日にわたって彼らに現れ、神の国のことを語られた。
苦しみを受けた後、イエス様が語られたことは、神の国のことです。神の国のことは、具体的には、神の国で報いを相続することです。信者を聖霊の内住によりキリストの働きにより、神と同じ者に変えます。神の御心を行うことで完全な者にするのです。そして、報いとして永遠の栄光を与えます。全てを通して、神の栄光が現されるためです。
1:4 使徒たちと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
1:5 ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」
弟子たちには、エルサレムにとどまるように言われました。それは、聖霊が降る
約束の実現を待つためです。それについて、「聖霊のバプテスマ」と言われました。「バプテスマ」は、浸すことを意味します。聖霊に浸されることで聖霊の支配に入ることです。完全に聖霊に浸された状態です。
1:6 そこで使徒たちは、一緒に集まったとき、イエスに尋ねた。「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。」
弟子たちは、預言に記されているように、イスラエルの国の再興について問いました。預言では、聖霊がすべての人に注がれるときは、イスラエルの再興の時であるからです。
1:7 イエスは彼らに言われた。「いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは、父がご自分の権威をもって定めておられることです。
しかし、それがいつであるかということについては、弟子たちには関わりないことでした。知る必要のないことです。その時については、父がご自分の権威で定めておられるからです。彼らは、イスラエル再興に未だに強い関心がありました。
1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」
聖霊が強く働くとき、弟子たちは力を受けるのです。それは、イエス様の証人として地の果までも証しするためです。
イエス様の証しは、この方が罪のために死に渡されたこと、そして、よみがえらされたことです。罪の赦しの道が開かれ、神によってよみがえらされたことを信じることで、神が義とされます。
・「臨むとき」→聖霊が力強く働くことの表現です。臨むことと力を受けることが関連付けられています。信者には、聖霊が内住されます。そのことと矛盾しているわけではありせん。内住することは、聖霊がいつまでもともにいることを強調しています。聖霊が臨むことは、聖霊が強く働くことを強調しています。
なお、旧約聖書の表現は、聖霊が降る、あるいは、臨むと表現されています。これをもって、聖霊が新約の信者に内住することとは、異なるという考えがあります。その根拠は、この表現の違いがあるからであるとする主張は当たりません。聖霊が降る、あるいは、臨むという表現は、聖霊が強く働くことを表しているのです。聖霊は、霊ですから、人の内に住むことと外から働くこととを物理的な位置関係として論じることに意味はありません。ただし、信じる全ての者に聖霊が与えられることは、新約時代に入ってからのことです。
1:9 こう言ってから、イエスは使徒たちが見ている間に上げられた。そして雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった。
1:10 イエスが上って行かれるとき、使徒たちは天を見つめていた。すると見よ、白い衣を着た二人の人が、彼らのそばに立っていた。
イエス様は、目に見えるかたちで天に上られました。そして、雲に包まれて見えなくなりました。それは、弟子たちが、主イエス様が確かに天に帰られたことを確信するためです。
1:11 そしてこう言った。「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。」
二人の人は、証人として現れました。弟子たちは、イエス様の姿が見えなくなっても見ていたのです。それは、意味のないことでした。
二人は、イエス様が同じ有様でまたおいでになられることを証ししました。イエス様が去って行かれたことをいつまでも考えているのでなく、再びおいでになることを考え、次の行動を取るべきなのです。
1:12 そこで、使徒たちはオリーブという山からエルサレムに帰った。この山はエルサレムに近く、安息日に歩くことが許される道のりのところにあった。
そこで、使徒たちは、オリーブ山からエルサレムに帰りました。
1:13 彼らは町に入ると、泊まっている屋上の部屋に上がった。この人たちは、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。
彼らは、十一人です。
1:14 彼らはみな、女たちとイエスの母マリア、およびイエスの兄弟たちとともに、いつも心を一つにして祈っていた。
このとき、イエス様の母と兄弟たちは、信者の仲間としてそこにいました。
1:15 そのころ、百二十人ほどの人々が一つになって集まっていたが、ペテロがこれらの兄弟たちの中に立って、こう言った。
1:16 「兄弟たち。イエスを捕らえた者たちを手引きしたユダについては、聖霊がダビデの口を通して前もって語った聖書のことばが、成就しなければなりませんでした。
1:17 ユダは私たちの仲間として数えられていて、その務めを割り当てられていました。
1:18 (このユダは、不義の報酬で地所を手に入れたが、真っ逆さまに落ちて、からだが真っ二つに裂け、はらわたがすべて飛び出してしまった。
1:19 このことは、エルサレムの全住民に知れ渡り、その地所は彼らの国のことばでアケルダマ、すなわち『血の地所』と呼ばれるようになっていた。)
1:20 詩篇にはこう書いてあります。『彼の宿営が荒れ果て、そこから住む者が絶えますように。』また、『彼の務めは、ほかの人が取るように。』
1:21 ですから、主イエスが私たちと一緒に生活しておられた間、
1:22 すなわち、ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした人たちの中から、だれか一人が、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません。」
ペテロは、弟子たちの前で、ユダに代わる使徒の務めをする者を一人選ばなければならないと言いました。彼は、詩篇を引用しました。神の預言のとおりの行動を取るべきであることを踏まえています。
1:23 そこで彼らは、バルサバと呼ばれ、別名をユストというヨセフと、マッティアの二人を立てた。
1:24 そしてこう祈った。「すべての人の心をご存じである主よ。この二人のうち、あなたがお選びになった一人をお示しください。
1:25 ユダが自分の場所へ行くために離れてしまった、この奉仕の場、使徒職に就くためです。」
→「これ(復活の証人の務め)(の奉仕)と使徒の務めの奉仕の場(すなわち機会)を取る(すなわち与える)ためです。」
二十二節で復活の証人を立てることが語られ、それを受けて、ユダに代わり復活の証人としての務めのためと使徒の務めのための役割を担わせるために、一人を選ぼうとしたのです。それで主に祈りました。
奉仕の「場」という表現になっているのは、その務めに選ばれた時、常にその務めをするわけではないので「場(機会)」であるのです。これは、務めを与えたことに重点が置かれています。使徒職という役職があるわけではありません。
・「奉仕の場」→務めの機会。ここでは、復活の証人としての務めを担わせること。次の語「使徒職」とは、接続詞で繋がれていて、この務めと、使徒の務めは、別に扱われています。
・「使徒職」→使徒の務め。
1:26 そして、二人のためにくじを引くと、くじはマッティアに当たったので、彼が十一人の使徒たちの仲間に加えられた。
それで、くじの当たったマッティアが使徒たちの仲間に加えられました。このとき、くじが引かれました。くじは、神の選びに委ねることです。聖霊が降られてからは、人を選ぶ働きは、聖霊によります。
数字の十二は、神の支配を表していますが、神に立てられる証人は、常に十二に調整されています。イスラエル関しても、レビが主に取られたとき、ヨセフ族がエフライムとマナセの二部族とされて、その証しを担うことになりました。